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更新日:2022年3月16日
和暦 |
西暦 |
主な出来事 |
---|---|---|
天保8年 |
1837 |
8月21日、播磨町古宮に生まれる。幼名は彦太郎 |
嘉永3年 |
1850 |
9月、栄力丸で江戸へ向う 10月29日、遠州灘で暴風にあい漂流 12月21日、米商船オークランド号に救われる |
嘉永4年 |
1851 |
2月3日、サンフランシスコに着く |
嘉永5年 |
1852 |
3月13日、帰国のためサンフランシスコ発 5月20日、香港着 10月初め、再び、渡米。12月初め、サンフランンスコ着 |
嘉永6年 |
1853 |
8月5日、サンダースに伴われてニューヨーク着 8月13日、大統領ピヤース氏と会見 |
安政元年 |
1854 |
1月17日、ボルチモアのミッション=スクールに入学 10月30日、カトリックの洗礼を受け、ジョセフの名を用い始める |
安政4年 |
1857 |
11月25日、大統領プキャナンと会見 |
安政5年 |
1858 |
6日30日、帰化し米国市民権を得る |
安政6年 |
1859 |
5月29日、上海のハリスを訪ね、神奈川領事館通訳に決まる 6月18日、長崎着神奈川入港 |
万延元年 |
1860 |
2月、領事館を辞任 3月、貿易商館をひらく |
文久元年 |
1861 |
9月17日、三度目の渡米の途に着く |
文久2年 |
1862 |
3日2日、リンカーンと会見 10月13日、横浜に帰り、再び米国領事館通訳の仕事を始める |
文久3年 |
1863 |
9月30日、領事館を辞任 秋、『漂流記』上梓 |
慶応元年 |
1865 |
5月、『新聞紙』を発行(元治元年(1864)説もある) |
慶応2年 |
1866 |
12月25日、横浜を去り長崎に向う |
慶応3年 |
1867 |
6月、木戸孝充・伊藤博文が訪ねてくる |
明治元年 |
1868 |
8月7日、故郷古宮に帰る |
明治2年 |
1869 |
神戸に永代借地権を得る 6月、香港造幣局の施設を買収し、大阪造幣局を創設するについて尽力する |
明治3年 |
1870 |
10月、両親の墓碑をたてるために帰郷 |
明治4年 |
1871 |
11月2日、両親の墓碑除幕、英文が刻まれているところから「横文字の墓」とも呼ばれている |
明治5年 |
1872 |
8月、大蔵出仕となり「国立銀行条例」の編さんに従う |
明治7年 |
1874 |
大蔵省を退き横浜の岡本伝右衛門に請われて商業教習に従う |
明治8年 |
1875 |
5月1日、北氏と合同、神戸で製茶の輸出貿易を始める |
明治9年 |
1876 |
北氏との茶商解散、単独の事業となる |
明治14年 |
1881 |
1月、神戸で精米所も始める |
明治17年 |
1884 |
12月26日、精米所の蒸気機関を貸し、神戸にはじめて電燈がともる |
明治20年 |
1887 |
3月12日、神経痛治療のため上京、駅頭で伊藤博文と再会 |
明治21年 |
1888 |
2月4日、東京に移り住む |
明治25年 |
1892 |
ヒコ自伝『ナレティヴ』の上巻丸善から発行 |
明治26年 |
1893 |
『開国之滴』出版される |
明治30年 |
1897 |
12月12日、心臓病で死去。青山の外国人墓地に葬られる |
昭和10年 |
1935 |
神戸市が生田区中山手通六丁目に「本邦民間新聞創始者ジョセフ・ヒコ氏居址」碑を建てる |
昭和31年 |
1956 |
5月16日、「ジョセフ・ヒコ墓地保存会」生まれる |
昭和35年 |
1960 |
12月19日、阿閇村(現在の播磨町)が「新聞の父浜田彦蔵の碑」を阿閇小学校(現在の播磨小学校)の校庭に建てる |
昭和49年 |
1974 |
6月、播磨町の浜田海岸に「生誕の地」の碑を建てる |
昭和55年 |
1980 |
4月12日、播磨町中央公民館の前庭にヒコの胸像を建てる |
平成6年 | 1994 | 6月29日、横浜市中区山下町横浜中華街關帝廟通りに「日本国新聞発祥の地碑」を建てる |
平成18年 | 2006 | 3月24日、絵ものがたり「ジョセフ・ヒコと洋式帆船の男たち」を発行する |
平成24年 | 2012 | 12月28日、関勉(せきつとむ)さん発見の小惑星が国際天文学連合小惑星回報で「Heco」と命名される---平成の「Heco・彦星」誕生 |
平成28年 | 2016 | 2月2日、播磨町歴史紹介映像「新聞の父ジョセフ・ヒコ物語」を製作する |
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